zillagodのブログ

国内旅日記 ~自転車旅・登山・徒歩旅行~

網走 「果て」と「入口」

網走の雰囲気

 2004年8月12日、屈斜路湖を早朝に発った日の正午前に網走市街に着いた。

 上手く表現できないのだが、網走には「果て」の雰囲気が漂っている。実際、昔の日本人にとってはここが果てに違いなかった。ただ、現在の網走市街は、いわゆる普通の街で、雑居ビルやビジネスホテルなどが並ぶ。本州などの一般的な市街とそう変わらない。

 しかし、ひとたび市街を離れ、北に行くと、すぐにオホーツク海に出る。オホーツク海の波は高く、水面は青々としている。8月なのに冷たそうな気配がひしひしと感じられ、いかにも北の海といった感じで殺風景である。

 そして、この海の向こうには、アリューシャン列島やアラスカ、果ては北極圏といった、人が住む最北の地がある。つまり、ここはその入口でもあるのだ。

 

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オホーツク海(2017年に撮影したもの)

 網走には、「果て」と「入り口」を感じさせてくれる観光スポットがある。前者が「博物館網走監獄」で後者が「北方民族博物館」である。両方とも網走市街の南西にある天都山の山頂付近にある。標高は207メートルと低いが、登り坂はなかなかハードである。

博物館網走監獄

 博物館網走監獄は、明治時代に開かれた網走監獄の施設を保存し、観光用に博物館としてアレンジしたものである。網走監獄は日本最北の流刑地で、囚人にとって、まさに「果て」であった。ここには凶悪犯の他、政治犯・思想犯も収監されていた。

 江戸時代が終わり、明治になって犯罪者があふれた。また、相次ぐ士族の反乱で政治・思想犯も増えていった。だが、犯罪自体が増えたのではない。江戸時代には当たり前に行われていた「打ち首」が禁止されたからである。西洋化を急速に進める上で、斬首という刑罰は、西洋諸国に非文明的だと思われていたのだ。そこで、罪人の収監施設=刑務所が相次いで建てられるのだが、網走監獄には別の意味もあった。当時、明治政府は国を挙げて北海道開拓に力を注いでいた。当時の北海道は未開の地である。開発には大きな犠牲が出ることが予想された。そこで、目を付けられたのが、あふれた罪人だったという訳である。

 ここ網走監獄では、そのような苛酷な開拓に従事した囚人の生活が展示されている。臨場感たっぷりの等身大の人形が至る所に設置されていて、当時の監獄内の風景が再現されている。実際の開拓労働は内陸の道路開通工事だったりするのだが、そういったジオラマも原寸大のものが展示されていた。

 ここに収監された囚人はほとんどが凶悪犯で、同情の余地はないはずだ。しかし、なぜか思いを馳せてしまう。「果て」の地で、囚人が従事したのは土木工事が多かったという。今、こうして快適に旅ができるのは、この時代の開拓のおかげだ。そう考えると感謝の念すら浮かんでくる。 

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博物館網走監獄

 

北方民族博物館

 一方、北方民族博物館は網走監獄のすぐ近くにある。「北方民族」とは北海道のアイヌの事を指していると、最初は思っていたのだが、そうではない。北海道や、北海道よりも北のオホーツク・樺太・アラスカなどといった地で生活する民族を総称している。もちろん、アイヌもその内の1つである。展示は、衣服・生活の道具から始まり、装身具・楽器・様々な紋様をあしらった織物など多岐に渡っている。そして、北方民族特有の「精神世界」について触れるコーナーもある。多くの展示スペースにはモニタが設置されており、北方民族の生活の様子の実際の映像が流されていて、展示物が実際に使用されている様子がよくわかる。

 「北方民族」と聞いて最初にイメージしていたのは、厳しい環境に耐えつつひっそりと暮らしている人々であった。実際、そういった側面はあるのだと思う。しかし、この博物館で見たことは、自然に耐えるというよりは、自然と共生しつつ、自然に対して畏敬の念を持って生活している人々のイメージだった。 

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北方民族博物館(撮影は2017年)

 博物館を出るころには、網走のイメージについて「果ての街」と「北方への入口の街」が両立していた。一見、殺風景に見えたオホーツク海の光景も、ずいぶんとイメージが変わっていた。